Aoyama Librarian’s Forumシリーズ―2
1997 Aoyama Librarian’s Forum 講演録
図書館を支える日本的条件
−21世紀の図書館サービスに向けて−
この講演録は、1997年9月15日、農林水産省共済組合南青山会館で行われたAoyama
Librarian's Forumでの講演内容を収録したものである。収録にあたっては、古賀節子先生、斎藤誠一氏にお世話になった。感謝申し上げたい。
目次
1-世紀末の大変動?
2-アメリカ資本主義と図書館
3-「電子図書館の神話」
4-日本の図書館の公共的基盤
5-日本的「情報社会」における図書館
6-図書館員の専門性
1 世紀末の大変動?
皆さんおはようございます。この会のことは、昨年ここでお話しになった三浦先生からうかがっておりましたが、まさか自分がこの場に呼ばれて話をすることになるとは思いませんでした。古賀先生を中心としたこういう会に呼んでいただいたということを大変に光栄に思っております。
今日お話ししたいことは、昨年三浦先生が「図書館の本質を見つめ直す」という非常に大きな話をされたということで、私はそれを受けてというか、ちょっと視点を変えながらも関連した話をさせていただきたいと思っております。私は、図書館学あるいは図書館情報学の領域の中での自分自身の位置づけを考えてみた場合に、非常に異端的な研究をやってきたと思っているのです。日本の図書館学、あるいは図書館情報学は、アメリカ流の図書館学、図書館情報学を踏まえて、その延長上に発展してきたと思います。私自身も、研究の出発点をそこにおいているのですけれども、それにやや飽き足りないものを感じておりまして、少し違ったものを出していけないかということを常々考えておりました。先程ご紹介いただいた、地域資料関係の文章を書くきっかけになったのも、図書館界の外部に、ある意味では寝耳に水の「情報公開」という問題が1980年代の中頃に生じたのですが、この問題について、図書館関係者がもう少し主体的に取り組めないのか、ということにありました。
そんなふうに自分自身の思考の回路を点検してみると、どちらかというとメインストリームからやや外れて、視点をずらしながら研究を広げていく、ということをやってきたような気がします。今日もそういう話で、三浦先生の話が「メインストリーム」だとすれば、私の話はそこから意識的に外したところでうろうろすると思いますが、最終的には今後の日本の図書館のことを考える時にヒントになるお話ができれば、と考えております。
今日の話ですが、お手元に今日の講演要旨が配布されているかと思います。三題噺として、「カーネギー、ビル・ゲイツ、酒鬼薔薇少年」というのを考えてみました。カーネギーはアメリカ流の図書館学、図書館、図書館運営の基盤ということで、最初にそういう話をさせていただきます。それからビル・ゲイツというのはもちろん、例のマイクロソフトの創始者で最高経営責任者(CEO)ですね。この人については、情報社会という新しい問題について考える一つのヒントにしたいと考えています。それから酒鬼薔薇少年ですが、「フォーカス」という雑誌に、例の犯人の少年の顔写真が載ったということを巡って、図書館の自由との関連でいろいろと問題になりました。皆さんの図書館でも問題になったと思うのですが、日本的な社会条件の中で、図書館はどういう位置づけになるのかということを、これをヒントに考えてみたいということです。
レジュメに沿ってお話しします。まず「世紀末の大変動?」ということですが、クエスチョン・マークがついております。「大変動」と言っているけれども本当にそうか、ということがあるわけです。私どもが翻訳した『電子図書館の神話』(勁草書房 1996)の著者ウィリアム・バーゾールに言わせると、20世紀には常に「今は大変動の時代だ」と言われ続けてきたのですけれども、実はそうでもなくて、アメリカにおける一番大きな変動の時代は、産業革命が終わった後の大体19世紀末から20世紀初頭の時代であったということです。私もそういう意味で、日本の場合は明治維新とか戦後改革の時代が、非常に大きな歴史の分岐点であり、今が変動期だとやたらに危機感をあおらない方がよいのではないかとは思っています。そういう大変動の間の小さな波にすぎないかもしれないという疑いは抜け切れません。
しかしまず第一に、こと図書館にとっては、新しい情報技術が急速に普及するような時代は波として非常に大きいものがあると考えております。皆さんのなかでもう既に波をかぶられている方も多いと思うのですが、大きなものとしては、インターネットとディジタル技術があります。私が、ことさら細かく解説するまでもないと思うのですが、インターネットの技術がなぜ重要なのかというと、これが新しい情報基盤になるということは、ほぼ間違いないだろうと考えられるからです。これまで情報革命の切り札と称して、キャプテンとか、パソコン通信とかCD-ROMなどが取り上げられてきましたが、次々にあとから出る技術に取って代わられています。皆さんのなかにもそうした取り上げられ方に懐疑的でインターネット後のメディア社会を考えている方もいらっしゃると思うのですが、今のままのインターネットという形でそうなるかどうかは別としまして、今開発されているインターネットの技術で提供されているものが基盤となって21世紀の情報基盤が出来上がっていくことは、ほぼ間違いないだろうと予測できるわけです。なぜかといえば、インターネットは今挙げたものを全部吸収できる情報基盤構造と結びついているからです。インターネットはTCP/IPという通信プロトコルに基づくネットワークにすぎないのですが、これが爆発的に普及しつつあるのは、パソコンの性能の向上、メモリー等の周辺機器の価格低下、マルチメディア技術の開発などがすべてこの基盤の上で行われているからです。
図書館が情報サービス業の一つであるとすれば、図書館がその情報基盤にどういうふうに関わっていくかということを、無視できません。図書館は、これまでは印刷技術という大きな情報基盤の上で仕事をしてきました。業務の基盤が製紙、印刷、出版、出版流通といった産業の上に成り立っていたと思います。これを総称して出版産業と呼ぶとすれば、出版産業そのものが大きく変貌を遂げようとしているということです。従来、放送、新聞、出版がメディアそのものの性質の違いから棲み分けていたといえるのですが、これが新しいディジタル技術による情報基盤においては互いに相互乗り入れになることが予想されます。すなわち、図書館そのものの基盤構造が大きく変貌するものと考えられます。このことが、図書館にとって大きな課題になるということです。
第二に、「規制緩和・地方分権と図書館」ということであります。これは、図書館が、多くの場合、国とか地方公共団体の運営するものが多いということで、日本の社会基盤の一つである国とか地方公共団体の新しい動きと図書館とが密接に関わってくるのは言うまでもない話です。この問題をどう考えるかは今日の本来の主旨ではないのですが、図書館専門職の問題と関わらせて、少し考えてみたいと思います。
一昨日、日本図書館学会のシンポジウムがございました。これは古賀先生が中心となって企画されたもので、まさに「規制緩和・地方分権と図書館、図書館員養成」という問題について議論いたしました。ここで議論されたのは、今のこれらの動きは、図書館界にとってきわめて大きな課題となっていて、これから目をそらして21世紀を迎えることは非常に危険であり、今それだけ危機的な状況にあるのだということでした。[注1]ただ、後でいろいろお話ししたいとは思うのですが、非常に隔靴掻痒の感じがするわけです。それは何故かというと、図書館的な機能が、社会全体から求められているということは間違いないと思うのです。ところが、それが即、図書館の制度機関サービスを振興する動きに直結してこないというもどかしさがあるわけです。ですから、今の規制緩和、地方分権の流れの中で自治体に図書館サービスが絶対に必要なんだ、ということになってくれば、これは、図書館にとっては非常にいいことなのですが、全く逆で、図書館というのは全く必要ない、あるいは図書館的な機能は、自治体が提供するサービスのいろいろなところに分散して存在しているからそれでいいんだ、ということになると、図書館の制度としては非常に危機的な状況になってくるかなということです。
そういうことで、今申し上げた二つの課題が、21世紀を迎える今我々の前に立ちはだかる壁であると思うわけです。これを何とか乗り越えていきたいというのが、図書館界の総力をあげての課題だろうと思います。で、今日の私の話は、その処方箋を示すことには全然ならないのですが、いかに壁を乗り越えるかを考えるヒントをお話ししたいということであります。
2 アメリカ資本主義と図書館
まず、アメリカの状況についてお話しします。最近アメリカに行ったり向こうの情報が入ってくるということがあまりないので、直接的にはよく分からないのですけれども、間接的に伺っている限り、今アメリカの図書館員養成の現場は、非常に活況を呈しているということが言われています。ライブラリー・スクールと呼ばれる、大学の図書館員養成の教育機関はどこも希望者が多くて賑わっているという話が伝わっています。これはアメリカでは図書館が21世紀を迎えようとしている現在、情報基盤のある部分を担う存在として認知されたことを意味すると思います。
私が最後にアメリカに行ったのは、もう三年前になる1994年春でした。アメリカ図書館協会(ALA)の下に公共図書館協会(PLA)という部会があります。二年に一度開催される大会に出席しました。行って非常に驚いたのは、議論がインターネットに公共図書館がどう対応するか、ということ一色だったことです。当時インターネットという言葉は、日本ではほとんど知られていなかったと思います。知っていた人は、大体大学の理系の研究者です。インターネットは1970年代前半に開発されたもので、もちろんコンピュータ関係の人は使ったり研究の対象にしたりしていました。私は図書館情報大学にいましたので、インターネットという言葉は知っていたし、大学でも使えるらしいということは聞いてはいたのですが、アメリカでは、普通の公共図書館においてそれにどのように対応していくか、どのように導入していくかが、大きな課題になっているという状況を目の当たりにして非常に驚きました。
アメリカでもインターネットが話題になったのは90年代になってからですが、ほんの少し遅れて図書館でそれにどのように対応するかということが大きな話題になるくらい、対応が早かったということだったと思うのです。それで、そういう対応の早さがライブラリー・スクールの、今の人気に繋がってきているのだろうと思います。
日本にもインターネットブームは遅れて図書館に入ってこようとしています。それに関わってか、司書課程の人気は低くはないという話を聞くこともあります。何となく漠然としてでも、図書館が、今の情報社会のある部分に関わっているという認識が、だんだん日本でも出てきているとは思うのです。その辺どのようにうまく表現し、対応していくかということが大きな問題になるだろうと思います。
では、アメリカで図書館はどんな存在なのだろうということを考えてみたいと思うのです。ここに用意したのは、アメリカ資本主義と図書館の関係についてです。私は、アメリカという国は、図書館に対して特別の思い入れがある国だろうと考えています。世界的に見ても、そういう国はそれほど多くないと思うのです。私の勘というか、想像というレベルのものなのですが、アメリカ人は図書館について特別の意味合いを持たせている国民だろうと思います。
何故そうなったのか。これにはいろいろ理由があるだろうと思うのですが、一つの大きな要素として、資本主義との関係ということがあるのです。アメリカは、もちろん資本主義の総本山みたいな国であるわけです。「近代しかもたない国家」アメリカにはいろいろな国是があります。基本的に、人々が自由な経済活動をして、国は特にそういうことには介入しないという基本的な原則というのがあると考えられています。そういう、アメリカの資本主義の原理・原則というものと図書館とは、一見結びつかない感じがするのですが、実はいろいろなところで繋がっています。
その繋げた張本人がアンドリュー・カーネギーという人だろうと思うのです。カーネギーと図書館の関係は、日本でも図書館史の授業で紹介されているので、ここで詳しくお話をすることはないと思うのですが、要は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカを中心としたアングロ・サクソン系の国に対して、図書館をたくさん寄贈したことで知られている人です。これによって、アメリカの公共図書館の発展がもたらされたという言い方が常にされています。確かに実際に建物を造って、図書館設置を進める原動力になったことは事実だと思うのですけれども、私はそれ以上に、カーネギーが図書館にコミットした、ということ自体のもつ社会的意味が極めて重要だろうと考えるのです。つまり、物事はそれが持っている機能や働きと同時に、その機能とか働きが人々の集合的な心理に与えた結果生ずる何物かのもつ作用が社会における評価の一つの重要な材料になります。ここでは、「シンボル」「儀式」、あるいは「神話」という言い方でもいいのですが、カーネギーという人が、当時のアメリカ資本主義のまさに一番中心にいた人であり、典型的なアメリカ立志伝中の人物として、彼をめぐってある種の神話がつくられ、そのなかに図書館をめぐる物語の装置が組み込まれていると考えられます。
そこに表を用意しましたが、これは次にお話しするビル・ゲイツと比較したものなのです。カーネギーは、スコットランドの出身ですが、若くしてアメリカに移住してきて、そこで自学自習の結果、いろいろ技術的なことを習得し、それをもとに鉄鋼業を始めて、それが発展して、世界最大の製鉄会社USスチール(現USX
Corp.)という会社に繋がっているわけです。アメリカ最大の鉄鋼会社を興した人です。
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Andrew Carnegie |
Bill Gates |
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業種 |
鉄鋼業 |
コンピュータソフト |
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期間 |
1886-1919 |
1997- |
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方法 |
北米で1689館の公共図書館建物の寄贈、図書館員養成へのサポート |
低収入地域の住民へのインターネットアクセスの提供と図書館員へのサポート |
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総額 |
4120万ドル(時価8億ドル) |
2億ドル+2億ドル分のソフトウェア |
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特徴 |
独自のphilanthropy哲学 |
? |
鉄鋼業は、言うまでもなく産業革命時代の中心的な産業であったわけです。今になると、日本でも新日鉄(旧八幡製鉄、富士製鉄)のような企業は非常に苦しい状況になっているわけですけれども、これは、産業の段階が時代によって随分と変わってきたことを示します。しかし19世紀後半から20世紀初頭ぐらいまで非常に重要な産業であったわけです。その中心人物が、晩年、図書館につよく関わってくるということが極めて重要であるわけです。「アメリカン・ドリーム」という言葉がありますね。財産もなく教育も十分受けられなかった人がアメリカ社会の中で大成功するという人に対する伝説的な、あるいは神話的な、意味づけというものが常にあるわけです。カーネギーは、そういうアメリカン・ドリームを体現した人であって、それも政治家やスポーツ選手と違って、アメリカの一番中心的な資本主義という概念の中で、中心的な位置を占めたということは極めて重要でしょう。その人が、図書館にこういう形でコミットするということが大事だと思います。
期間としては19世紀末から20世紀の初めにかけての大体30年ぐらいの間に、公共図書館建物の寄贈を行います。アメリカ公共図書館はこの時期に一定の基盤整備ができたということで、その後は図書館員養成とか、図書館のもう少し間接的なことをサポートするという方向に変わっていきます。
それから、ここにお金のことを書いてありますけれども、もちろんこれは当時の額なので、今どれくらいなのかというのは見当がつきにくいのですが、ある本によると、当時の額は、今で言えば20倍ぐらいになるという話です。それで言うと、これは4,120万ドルと書いてありますから、今で言うと、20倍すると8億ドルということになるわけです。8億ドルというのは、1ドル120円で換算すると、大体1,000億円くらいですか。非常に大きな額になるわけです。特徴として独自のフィランスロピィ哲学があります。これはここで詳しく説明できませんけれども、カーネギー独特のキリスト教思想に支えられているということはよく言われることです。
アメリカの図書館にとって、カーネギーは極めて重要だということは、今でも語り継がれていることで、今でも財団からお金が出ているということはあるみたいです。私は今から何年か前に、ミシガン大学に10ヶ月ほど滞在する機会があったのですが、そこの先生に、ミシガン大学のライブラリー・スクールに現在でもカーネギー財団から資金が出ており、カーネギーは変わらず非常に重要な人物だと言われて、今の時代でもそうなのかと思ったことがあります。単に建物を寄贈してそれで図書館を振興したというだけではなくて、あのカーネギーがコンサートホールでも博物館でも、大学でもなくて、とくに図書館づくりに関わったことが、社会的評価として大きな要素をもたらしているということはあると思います。
次に、時代は100年ほど飛ぶわけですが、これもご存じビル・ゲイツという人が、やはり公共的な財団(Bill
and Melinda Gates Library Foundation)を作って、公共図書館に利用者用のコンピュータ機器を提供したり特に低所得地域の図書館における図書館員の技術研修などにあてる費用として2億ドル、さらにマイクロソフトが作成したソフトウェアを含めて計4億ドルの寄贈をするということが報じられています。
私は、ビル・ゲイツの生い立ちとか哲学というのはよくは知らないのですけれども、ビル・ゲイツがカーネギーを意識しているということは間違いないのではないかと思うのです。[注2]カーネギーが、まさに産業革命時代の中心的な人物であるとすれば、次の産業革命がまさにこの情報革命ということで、革命後の産業としてコンピュータのソフトウェアが象徴的にも実質的にも中心に位置づけられるはずです。マイクロソフトという会社は、そういう意味で21世紀の情報社会を担う担い手として、情報産業をリードしようとしていることは間違いないわけです。ソフトウェアは単にコピーするだけで市場次第で巨額の富を産みだすものでこれは全く新しい産業構造をもつと言っていいでしょう。ゲイツは、もともとはガレージでコンピュータを組み立てるところから出発した人で、これまた現代のアメリカン・ドリームを体現していると言われるわけです。世界一の大金持ちになったということがあって、カーネギーとそういう意味で対比できるような存在かと思います。
この人が、今年になってから、4億ドルの寄付をするということを発表したわけです。95年ぐらいから財団を作って、少しずつそういう活動を始めていたようですが、実際に何をするかというと、都市部の低収入地域の住民に対して、インターネットの公共アクセスの提供、ハードウェア、ソフトウェアの購入費用の提供、また、同時に図書館員の養成とか研修への支援提供などが挙げられています。アメリカの公共図書館の半分ぐらいは、これで実際に恩恵を受けるのではないかと言われているわけです。
もちろんビル・ゲイツ氏一流の計算というのもあるのだろうと思います。金持ちがフィランスロピーを行うことはほとんど義務と考えられている国ですし、また、反トラスト法違反で提訴されたマイクロソフトの法廷戦術という側面ももつでしょう。
そもそもアメリカの情報スーパーハイウェイ構想の中で、図書館はかなり早いころから重要な要素として挙げられてきました。学校教育、医療と並んで、図書館がアメリカの情報基盤を支える重要な位置づけにあるとされ、それを国家的に支えていくことがこの構想の中で位置づけられていました。もうその時点で、図書館の情報サービスにおける位置づけは、それなりの評価を受けていたと思うのですが、ここに来て、ビル・ゲイツは、21世紀の情報基盤を考える時に、今のようにソフトを売ってというような形だけではなくて、やや迂遠ではあるが有効と考える公共政策的なアプローチを導入したわけです。アメリカのすべての国民がインターネットを通じて情報を入手できるような、そういう社会を作っていくということが、情報スーパーハイウェイ構想の最終的な目標になるでしょうし、これはまさにマイクロソフトという会社にとっても、そういう基盤を作っておくことが、次の商売の基盤になるという計算になるわけです。
彼がいち早く情報基盤を通信という側面だけではなく、「コンテンツ」に着目していたということも知られています。日本でも売れている「MSエンカルタ」というマルチメディア百科事典などがそれをよく示しています。図書館に着目する理由はこのあたりにもあるといえましょう。ALAもこの件についてかなり早いころからコミットしており、図書館側と企業側である程度利害が一致している部分があると思います。
アメリカという国で、図書館は、住民の、コミュニティのサービス機関として、もともと重要であったわけですが、カーネギーが第一段階の図書館サービスの推進役の一人として重要であったとすれば、21世紀の図書館の推進役の一人として記憶される人に、このビル・ゲイツがなる可能性もあるのかなと思うわけです。[注3]
3 「電子図書館の神話」
このことについて、もうちょっとアカデミックに考えてみたいということで、次に『電子図書館の神話』という本についてお話ししたいと思います。著者バーゾールという人は、今カナダで図書館長をやっている人です。[注4]もともとアメリカの中西部出身の人で、カナダのノヴァスコシアという大西洋岸の州に移っている人です。世界的にみてもライブラリアンシップは実践的なものが中心になっており、アカデミックな研究というのはあまり多くはないのです。私が見るところ、どちらかというと辺境からすぐれた理論的な研究をする人が現れる傾向があり、本書も辺境にいるからこそ書けるような本という気もします。非常に明快にアメリカのライブラリアンシップの特徴をとらえようとした本だと思います。
そもそも『電子図書館の神話』というタイトルは非常に多義的、両義的で、これだけでは何を言っているのかよくわからない本です。つまり、電子図書館が現実なのか神話なのか、また電子図書館への動きを肯定したいのか否定したいのか、その辺がタイトルを見ただけではよくわからない話なのです。私が翻訳をやって感じたことですが、著者は意図的に両義性を表現したいのだろうと思います。電子図書館そのものを否定したいと考えているのではないのですが、ニュアンスとしては、この本の中では、場所としての図書館と、電子図書館という概念を対比的に出し、もともとの場所としての図書館を強調したいがために、電子図書館を対立項として出しているので、電子図書館に対しては批判的な表現が多いと思います。
ただ、電子図書館をこの人はどうとらえているかというと、これは一言で言うのは難しいわけです。というのは、いわゆるコンピュータやネットワークを通じた電子図書館そのもののことを電子図書館と言っているだけではなくて、もっと広い意味を含めているのです。ここで電子図書館と言うのは情報を伝達する機能をもつ図書館的な仕組みを合理化したものを指します。それは、私なりに整理してみた表における「伝達モデル」ということです。
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場所としての図書館 |
電子図書館 |
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基調 |
伝統、権威 |
機能、効率性 |
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トポロジー |
建物 |
ネットワーク |
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図書館モデル |
公共図書館 |
学術図書館・専門図書館 |
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メディア |
本 |
コンピュータテクノロジー |
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メッセージ |
知識 |
情報 |
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社会理論 |
セラピー社会 |
情報社会 |
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図書館員 |
セラピスト |
情報仲介者 |
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専門職モデル |
人間志向的サービス専門職 |
非人間志向的サービス専門職 |
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組織モデル |
官僚制 |
独立自営 |
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政治哲学 |
コミュニタリアンに近い自由主義 |
市場志向の新保守主義 |
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コミュニケーションモデル |
儀式モデル |
伝達モデル |
(根本 彰「図書館研究への儀式的アプローチ」『図書館界』vol.48, no.5 , 1997)
コミュニケーション論の研究者でイリノイ大学にジェームズ・ケアリーという人がいて、彼がコミュニケーションモデルを二つに分けて書いているのです。一つは、「儀式モデル」で、もう一つは「伝達モデル」です。伝達モデルのほうが非常にわかりやすいのですが、情報を伝える、情報を提供する、こういうことが伝達モデルです。従来、マスコミュニケーションにしろ、それ以外のコミュニケーションにせよ、伝達モデルを中心として議論が組み立てられてきた部分があると思います。バーゾールも、電子図書館についてはこの伝達モデルを中心に組み立てられていると考え、効率的に情報を提供するような仕組みを電子図書館ととらえるわけです。ネットワークを通じて、どこにいても瞬時にしてどんな情報でも入手できるような電子図書館が一番効率のいいシステムでありますから、そういう意味での電子図書館をここで一つの典型的な例として挙げているわけです。ただ、著者のユニークな点は、従来の図書館でも、資料の相互貸借などネットワークを重視する方向を機能的に図書館を組み立てるものととらえ、伝達モデルに基づく電子図書館の先駆的形態と考えています。「機能、効率性」を重視した図書館モデルが電子図書館モデルということになります。
それに対して、「儀式モデル」ですがややわかりにくいのです。これは先程、カーネギーのところでお話ししたことと共通するわけですが、伝達モデルが結果的にどういう効果をもたらすかということに関わってきます。つまり、シンボリックな効果というものが、ここで問題になるのです。ちょっと日本的な状況に置き換えて紹介すると、スポーツニュースの受容ということがあります。スポーツ好きな人がいて、ひいきのチームの野球のナイトゲームがあったとします。その実況中継をテレビで見るということがありますね。それを見た後に、ニュースでもう一度見たり、スポーツ専門の『プロ野球ニュース』のような番組で繰り返して一番いいシーンを見たりします。それから、翌日宅配された新聞を見てもう一度確認します。好きな人はさらに通勤途上でスポーツ新聞を読みます。試合を見ている訳ですから、情報伝達モデルで言えば最初の観戦で十分なわけです。しかし、結果を知っていても、再度見たいという心理を考えてみますと、ひいきの選手の活躍するシーンを繰り返しみたいとか、ある作戦についての評論家の解釈が自分の考えと一致するかどうかとか、多面的な部分にわたる見方というものがあります。
メディアというのは、このような多面性重層性をもっています。だから、新聞があって、週刊誌があって、月刊誌があるのも、刊行頻度による情報の鮮度で階層化されているだけの問題ではありません。多分それは儀式モデルである程度説明できるようなことだと思います。ケアリーに言わせると、野球なら野球というものの儀式とは、実はグラウンドで試合がなされているわけですけれども、そこの場だけじゃなくて、もうちょっと広いコミュニケーションの儀式的空間がメディアによって媒介されているということです。テレビを見る人も新聞を読む人もその儀式に参加しているのです。
また、それは空間だけではなく時間軸による広がりも持っているということも図書館サービスに関わるものとして無視できない指摘です。翌日の新聞を読むことでも儀式に参加することが可能です。極端なことを言えば、100年前のある野球の試合の興奮が図書館でその報道記事を読む人に伝わったらその人もまた儀式に遅ればせながら参加しているということになるのです。
図書館は最近の考え方からすれば、どちらかというと効率よく情報をどんどん提供していくことが重視されるわけですが、もともと図書館の考え方というのは、資料の保存とか知識の共有というところにありました。そういうことを考えていくと、むしろこの儀式モデルで説明できる部分が多いのではないかというわけです。そこで出てくるのが場所としての図書館という概念です。図書館にとって効率よく情報を提供するということが一つの要素としてあるのですけれども、それだけではなくて、図書館は建物のもつ意味が重要だといいます。コミュニティにおいて、例えば都市のダウンタウンにカーネギー・ライブラリーと呼ばれる、かのカーネギーが寄贈した独特の新古典様式の建物が存在する図書館がおかれている場合があります。そういう建物そのものがもたらす雰囲気やコミュニティの中心に存在しているということが、極めて重要な意味合いを持っているということを言うわけです。
図書館は資料を提供する施設であり、情報ニーズがあってそれに応じて提供するという役割がもちろんあるわけですが、それが結果として、ある意味での知識の共有化に結びついてくる面があります。公共図書館にサービスの目的は必要ないのだ、目的は利用者それぞれがもてばよいことだと言う人がいますが、集合的な目的あるいは機能が存在することは確かです。もともとアメリカの公共図書館はそのような保守的な部分を強く持っていたのであり、今もそういう面が強くあると思います。例えば、資料を選択する際に価値論と要求論という考え方がありますけれども、価値論的な部分が今でも一定の意義を認められています。これは何かというと、結局アメリカの公共図書館の総体がある一つの価値を担っているという意識が常にあるのだろうと思うのです。その場合の価値とはどういう価値かといいますと、図書館の蔵書は、文化とか教養とか古典とかさまざまに呼ばれる価値観を負荷された知識空間と結びついているという感覚ですね。つまり世界中のよき文化的遺産の一部、あるいはその複製が個々のコミュニティに蓄積され、これが住民に媒介されているということです。これがアメリカの公共図書館を基本的に成り立たせている大きな要素だろうということです。
その知識空間についてもう少し付け加えると、ギリシャ、ローマあたりに遡る西欧の学術、芸術とか文学とか、そういうものの流れだろうと思います。そのような形で集大成されている知識の構造というか、固まりがあるのです。そのコピーが、それぞれの図書館に置いてあるということが、アメリカの図書館を伝統的に支える潜在的意識としてあります。
いうまでもなく、これがある時期から少しずつ崩れ始めています。ですが、図書館が教育機関であるという場合には、ある文化的な負荷が与えられた知的空間を媒介することが前提として存在していたのです。カーネギーが何故図書館にコミットしたのかというと、図書館のシンボリックな機能を重視したのでしょう。そうすると、ビル・ゲイツはむしろこの電子図書館の機能的な部分にコミットしようとしているようにも見えますが、それだけではないでしょう。彼もまた、カーネギーのひそみにならって、もっとも市民に定着した公共施設である図書館のシンボル性を利用しようとしたといえるのではないでしょうか。
アメリカの図書館について、大体そんなふうに私は考えております。バーゾールを翻訳して、電子図書館を合わせ鏡のように使いながら、アメリカのある意味では保守的な、伝統主義的な、図書館の考え方をうまく抽出する手法に感心しました。これが、戦後のわが国の図書館制度を考えるときにカナダよりもさらに「辺境」にある日本のことを考えるときのヒントになるのではないかと思います。
4 日本の図書館の公共的基盤
日本の話に移ります。まず、日本の図書館の二重構造についてお話ししようと思います。
図書館という考え方は、明治以降、西欧から導入したものです。中国をお手本にした日本の文庫は西欧の近代図書館とはおよそ違った制度です。これは、歴史意識の違いに基づくものでしょう。中国や日本の歴史は、王朝や時の権力者が自らの権力の正統性を主張する手段です。つまり、権力構造を正当化するために歴史を編纂し、過去の歴史を葬り去るのです。これは明治政府も実行したことです。『大日本史料』編纂のために東京大学に史料編纂所がつくられました。また、明治政府の文化政策の一環として文部省の事業として編纂した類書『古事類苑』もそうした正統化の手段でした。
それに対して、近代啓蒙主義に基づく歴史意識においては、歴史はもっと動態的でありかつ実証的なものです。権力を奪取することによって変わる歴史に対して、史料を蓄積し、これをもとに科学的な歴史観を作り上げていきます。フランス革命期の18世紀末,アンシャン・レジームの文書や記録を保存するためにフランスに中央文書館が法令で設置され、その後各地に地方文書館ができたことを思い起こすことができます。
わが国では西欧的な制度をいろいろ導入する中で、図書館という制度も導入されました。しかしながら、日本の社会に本当にそれが必要かどうかの議論を抜きにして、制度的な模倣として入れていったと思います。もちろん、もっと自主的な動きとして、図書館を作るという「図書館運動」と呼ばれるような動きもありました。たとえば、自由民権運動の中で学習のための資料を共有する図書館を作っていくという動きは無視することはできないものでその辺を評価すべきだと思います。全体として見た場合に、国の制度の中では模倣された制度としてあって、教育制度の優先順位として、やはり学校教育のような明治政府が力を入れた制度に比べると、かなり後回しにされた制度としてあったと思うのです。
それが戦後、アメリカのライブラリアンシップの強い影響を受けて、別の形で再生しようとしたと考えられます。つまり、これからお話しすることからすると、アメリカの図書館運営の考え方は、あまりにも日本的な社会状況の中では異質なものだったと思うのです。このことを日本の図書館を支える情報空間の特質を検討することで考えてみたいと思います。
これを考える時の糸口として、「間人社会」(かんじんしゃかい)、そして「世間」というものを挙げてみます。人間社会じゃなくて、それをひっくり返して「間人社会」としたわけですが、「人間」という言い方そのものが、人というものは一人孤立してある、あるいは自立してあるのではなくて、人と人との間でしか人は成り立たないというような思想があると考えられます。[注5]「人間」という言葉は、「Homo
Sapiens」や「human beings」のような表現と比べると、もう既にここで言うような間人社会でしか生きられない人というのが、何となく表現されていると思うのです。
阿部謹也さんは、今一橋の学長をされている有名な歴史家ですが、この何年か「世間」とか「教養」についていろいろ発言されています。この辺については講談社の現代新書に『世間とは何か』と『教養とは何か』という本を出されていますので、その辺をお読みいただければと思います。その主張は、結局、ヨーロッパ的な教養というものは、個人の自立のためにあったのですが、日本の場合は、自立してはいけないという規制がそもそもあって、世間という構造の中でしか人は生きられないので、日本的な教養はどうしても世間にある程度合わせざるを得ないような構造を持っているということです。もちろん教養は個人のものでありますが、集団的な教養を身につけることが現代においても要求されるのです。学校教育において個人の自立、自分のことを自分で考えるということが主張されています。が、こと就職ということになると、スーツを着て、礼儀正しく、言葉遣いもこうだとかいう指導をしなければならないというのが、まさに世間に合わせざるを得ないということです。大学がもつアカデミズムやその前提となっている西欧的な秩序構造と日本的世間の構造というのは、実は非常に大きく隔たっていて、その辺が日本の大学の大きな矛盾であるわけです。そのようなことを認識させられるわけですけれども、ともかく、だから日本の社会が、近代化120年過ぎた後でもあまり変わってない。西欧の社会と随分違ったものなのだということを、まず認識する必要があるのだろうと思うのです。
そこで、情報の問題を考えてみたいのですが、これはよく言われるように、日本社会には、情報の流れ方としてマスメディアが一方的に流す情報があり、他方でインフォーマルな情報、あるいは小集団レベルの情報があるのですが、あいだに共通の情報基盤というものをなかなか作りにくい構造があるということです。マスメディアは一般的な情報はどんどん流しますが、マス相手であり、一番重要な情報はそこでは流さないわけです。一番役に立つ情報は利益集団や個人レベルで流れ、共通の部分では流れにくいわけです。情報は抱え込むということが当たり前の状況が出ているわけです。友人同士ならいろいろな情報を交換するわけですけど、知らない人も含めた広い場においてはなかなか発言しにくいというところが常にあるわけです。
『知の技法』という本が、東大の駒場の先生たちを中心に出されています。私は、あの本が肝心の「知の技法」という点で不徹底ではないかという不満をもつのですが、最後の文章で編集者のお一人の船曳建夫さんがなぜ日本ではゼミナールがなかなか成り立たないのか、妨げているものを打破しなければならないということが書かれており、非常に印象に残っています。日本では大学に入る以前の学校教育において自己を集団の中で主張する教育がほとんどなされていない。それが巡り巡って、大学でゼミをやった時に、発表者が何かを調べてきて発表するところまではいいのですけれども、その後、それについて、何か質問とか意見を出してくれと言ってもなかなか出せず、なかなかいい議論がしにくいという構造ができているというわけです。そういう“「うなずきあい」の18年と訣れて”があとがきのタイトルになっています。[注6]
私は、それを何とかするためのものが『知の技法』だったのかなと期待したのでした。多分図書館関係の方は、『知の技法』ということで図書館の利用の仕方や文献の探し方などを期待されたと思うのですね。私もそうだったのです。あの中で、図書館の使い方も書いてありますけれども、駒場の図書館じゃ仕方がないなという程度のものです。[注7]残念ながら、あの本の中心的な部分は入学したばかりの学生のための「知の技法」ではなく、一流の学者の「知のアクロバット」というべきものだったと思います。そのパフォーマンスはたいへんおもしろいのですが、新入生にそれをやってみたらというのは酷というものです。船曳さんの問題意識がうまくいかされていないのは残念です。そこで指摘されている公共的な情報空間を阻害するような面については、わが国における図書館の不振と密接な関係があるだろうと思います。
世間的な構造、あるいは情報が限定された流れ方をするというのは日本に限らない現象です。アメリカにももちろんありますが、相対的な関係と考えるべきです。公共的な部分と、私的な部分の相対的な位置づけにおいて、アメリカは、公共的な部分を大きく確保している国だと考えます。それを国是というか、建国の理念の一つにして国が成り立っております。つまり、市民が情報を共有しなければアメリカという社会は作っていけない。これはトマス・ジェファーソンらの建国の父の思想としてあった考え方なのです。それは、忠実に守られていて、図書館を支える力になっております。
片や日本ではどうかということですが、図書館が成り立ちにくいのは、日本人にそういう公共的な情報基盤に頼るということが習慣としてほとんどなかったということが大きいのかなと思うのです。例えば、公共図書館というものは今でこそ市民にかなりなじみやすい一般的なものになってきているのですが、そうなる以前の図書館を考えた場合に、必ずしもなくてもよかったようなものだったのかもしれない。さっきの儀式モデルで言えば、地域的なシンボルという面はありました。ただ、それは何のシンボルかというと、多分それは西欧文化のシンボルであったかもしれない。あるいは、地域によっては、中央的な学問とか教育のレベルを当該地域に持ち込むための装置という面もあったかと思います。逆にその地域の地域文化を検証するための装置という場合もあったでしょう。いずれにせよ、それを実質的にどの程度の人が利用したかということになると、ごく一部の人に限られていたのだと思います。
それでは大学図書館はどうかということですが、かつての東京帝国大学のような大学に典型的であったわけですが、大学教授はエリートだったわけです。エリートである帝大の教授はかなりいい給料を貰っていて、それで、自分なりの資料を購入し、研究室なり自宅にそういうコレクションをもつことが当たり前になっていました。情報をまさに抱え込むという形をとっていたと思います。もっとも重要な学術資料は自分で購入するから図書館で購入するものはそれほど重要性のないものということになります。これはもちろん文科系の話で、理系の場合はまた違った状況があったと思うのですが、どうしても図書館のモデルとして文科系的な図書館モデルが中心に考えられやすいので、日本の図書館のイメージは非常によくないわけです。
さらに、日本の学問は西洋の学問を輸入しながらこれを翻訳紹介するかたちでつくられた面が大きいわけですが、その時の輸入業者、例えば丸善のような企業が学術情報流通上果たした役割は極めて重要でした。つまり、丸善が最初に持ってくる本を個人や研究室で確保して、図書館のような多くの人が共有できる所にはそうしたものは置かないということは多々あったわけです。このように、学者の世界でも共有しながら情報を交換することができにくい部分があって、そのことは、まさに世間の構造とか、間人社会というものと非常に密接に関わっているわけです。
そのような状況が支配してきたわけですが、戦後、アメリカ的なライブラリアンシップが導入されて、少しずつ変わってきていると思います。例えば公共図書館に関していえば、図書館法ができ、それから「中小レポート」(『中小都市における公共図書館の運営』)、それから『市民の図書館』に基づく日本図書館協会の図書館政策がそれなりの成果を上げて、それでかなり身近なものになったということはあります。あるいは大学図書館であっても、図書館を充実させるという動きはかなり強くあり、それでうまくいっているところも多いと思うのです。ですが、なかなか外国の例を聞くようにうまくいっていない部分が多いのは日本的な構造がいろいろ阻害している面があるからです。
5 日本的「情報社会」における図書館
それで次に、そういう日本的な「情報社会」において図書館がどうあるのかを考えてみたいと思います。私は「公共情報ストックシステム」としての図書館の可能性を探りたいと思っています。もちろん、「公共情報ストックシステム」というと、別に図書館に限らず、博物館とか文書館とかいった類縁の機関も同様の役割を持っています。また、最近、「社会的記憶」の問題が思想的テーマになっていることはご承知でしょう。
ここでは、「歴史意識との関係」というものを考えてみたいと思います。日本社会では歴史小説はよく読まれているのに反して、歴史に対するビビッドな意識が希薄ということはよくいわれることです。旧日本軍の戦争犯罪に対する態度が諸外国から批判されることがそれを示しています。一年をサイクルにして、年末に忘年会をやって大晦日が明けたらもうそれで過去一年は全部水に流すという、基本的な考え方があるわけです。歴史もいいかげんにしてしまうということが、日本社会の一つの特質でした。それに対する反省はもちろん戦後の非常に重要な思想的政治的テーマでした。今、歴史教科書の問題や「日の丸君が代」問題で突きつけられていることの根っこもここにあります。これは博物館、文書館と一緒になって、図書館界は、歴史というか、過去のものをどういうふうに保持していくかということに対して、もっと先鋭的な問題意識を持っておく必要があります。そのことが結果として、「公共情報ストックシステム」としての図書館的な機能を重視する動きに繋がっていくのです。
それを裏返しに言うと、日本的な情報社会はフローを極めて重視する社会だと言うことになります。これは高度経済成長期以来、前のめりになってスピードを競うようになった社会意識と関わっています。情報がどのチャンネルでどの程度の早さで流れるかは常に問題にされるのですが、どのようにストックしていくかについては、非常にいいかげんだったと思うのです。ここに来て、それではだめだという考え方が出てきていることも確かです。たとえば野口悠紀雄氏の『「超」整理法』もその一つです。斬新なアイディアではありますが、これは個人的な情報ストックをどのようにつくるかを問題にしたものであり、あくまでも情報フローへの対応策であることは明らかです。
国立国会図書館で、電子出版物を対象とするために納本制度を変更しようという動きがあるのは皆さんご存じでしょうか。今年から納本制度調査会というものができまして、そこで、国立国会図書館法の納本制度の部分の改正も射程に入れて検討し始めております。『図書館雑誌』にニュースだけ出ていたのですが、本来これはもっと大きな話題になるべきことだと思うのです。[注8]
私は、調査会に付設された電子出版物部会に専門委員として参加しておりまして、その議論の状況を見ております。出版界や映画の関係者、著作権法や行政法の専門家などいろいろな人が入って議論しているのですけれども、それぞれの業界の利害を調整する場としての性格が強くて、本来の納本制度の役割である文化財の保護とか保存とか、そういう話になかなかなっていかないのが歯がゆいところです。例えば、日本の著作権法においては、著作権の制限として図書館における複製が挙がっているのですけれども、著作物を公共的に利用することの積極的な意義が議論されにくい状況があります。著作権法は著作権者の権利を守るための法律であって、新しい技術がどんどん出てくる中で、全体の議論としては権利を強化する方向にあるわけです。その中で、図書館もまた新しい技術を用いて著作権を侵害する勢力の一翼を担っているという意識が、そういう業界のほうにあります。図書館は公共的な場として著作物のような文化財を保護していくのであって、必ずしも著作権者とかメディア制作者の利益を損なうものではないということがあまり理解されてないような状況があります。
図書館のもつ公共的な部分をもっと強調し理解をえたいとは思うのですが、ただ、まさに情報の公共的な基盤そのものが日本では弱いがために、極めて理解されにくいということは事実です。だから、例えば国立国会図書館はそういう役割を果たしていると言っても、やはり国立国会図書館は国の機関であって、官と民という対立でいえば、国の機関というのはそんなに信用できないんだという考え方があります。歴史的にいえば、国立国会図書館法ができる直前までは、内務省の検閲というのがあって、検閲の後交付された本が、帝国図書館に入ってきたという事実があるわけです。そういうことは、もう記憶としてはほとんど残っていないでしょうけれども、やはりシンボリックには残っておりまして、そういうことで官に対する不信というものもあります。日本の場合は、公と官とを区別して議論することが必要なのですが、図書館の公共的サービスが民間の利害関係者から正当に評価されていないことは事実です。
学校図書館法が改正されまして、司書教諭が置かれる状況が出てきました。学校図書館もようやく見直されそうな状況があるかと思うのですが、そこでも、もともとモデルになったアメリカ的な学校図書館、つまりカリキュラムとか、子どもたちの学習過程そのものに直接関わるようなサービスをする位置づけになるのかどうかが最大のポイントです。しかし、今の状況だと難しくて、むしろ文部省の考えていることは、今の活字離れとか読書離れというものを心配して、活字に親しませるとか、学校にインターネットを導入するときの窓口になるというような、やや二義的なレベルで問題をとらえているところが多いような気がします。
これらは、図書館の情報ストックが持つさまざまな効果がわが国では額面通りに受け取られていないことを示す例です。これがどの程度理解してもらえるかということが今後の重要な課題になるだろうと考えます。
その時に、出版システムとの関係を検討すべきだと思います。出版流通のシステムが日本では非常によくできていることはすばらしいことですが、それが図書館の固有の論理形成を妨げる一つの要因になっています。出版流通のシステムが、全国津々浦々、新しく本が出れば一定程度の規模の都市に行けば数日のうちに書店の店頭に並んでいるという、他の国ではまず不可能な流通の仕組みが存在しています。これがあるために、図書館などはなくとも必要な資料は入手できるのだという幻想がつくられやすくなります。出版流通システムだけで知的システムが完結すると考えられたこと自体が日本がフロー社会であることを示すものです。
ところが、流通には限界があります。例えば、書店の経営が成り立たないような小規模な自治体が多数存在します。書店があっても多くの場合、新刊文芸書、実用書、文庫本や新書、コミックス、雑誌、学習参考書といった決まり切ったものしかおいていません。そもそも流通している本しか流れないわけですから、この何年かのように非常に出版点数が増えて、5万点6万点の新しい出版物が出るような状況になってきますと、出版社のほうもフローを中心に考え、ストックを持たないということをかなり徹底させます。こうなると本が入手できる期間は本当に限定されてしまいます。出た本が二、三年後にはもう入手できないということがおきてきます。
本来、このようなフローの出版市場の欠点を補うものとして図書館的なストックシステムが重要になってくるのです。先程の出版業界団体には、出版と図書館の関係を競合するものととらえる見方があるわけですけれども、実はちゃんと棲み分けをすることが可能なのだということが主張されるべきではないかと思います。
ただし、電子図書館と電子出版の関係ということになると、これが、先程の納本制度の、新しい電子出版物についての議論を難しくしているところです。つまり、ディジタル状況においては電子図書館と電子出版の区別はなくなってしまう可能性があるのです。図書館が間に入らなくても、生産者が直接消費者に情報を提供できるような状況が出てきます。ストックとフローの棲み分けというのを、どういう形で主張していくかということが、多分その議論の大きなポイントになるだろうと思うのですが、電子出版物の提供主体について図書館がどこまでやれるのかということは難しい問題です。これは、単なる技術的な問題にとどまらず、電子出版物の市場がどのような構造になるのかに依存します。たとえば、オンデマンド出版は従来市場になりにくかった領域を市場化する試みですが、これが盛んになると図書館がそうした出版の市場を脅かすのではないかという批判が出てくる可能性があります。ストックを中心にする図書館システムでさえディジタルメディア時代には、予断をゆるさないものがあるということです。
6 図書館員の専門性
最後に、図書館員の専門性の問題と図書館の自由についてお話ししたいと思います。
まず、「図書館員の専門性の確保」ということです。これは非常に大きな問題で一言で言うのは難しいのですが、「『資料』や『情報』の専門家」という言い古されていることを改めて評価したいと思います。もちろん抽象的な資料とか情報というものをそのまま図書館に当てはめるのは非常に危険でしょう。今度の新しいカリキュラムの中でも、「図書館資料論」と「専門資料論」とに分けてやることになっています。実際の資料は、生産者があって利用者があって成り立つ関係の中で生じるものです。その意味で、「主題専門性」あるいは、主題に限らない何かの領域の専門資料情報にこだわることは今後とも重要になっていくでしょう。その意味で、今回の司書講習のカリキュラム改定で専門資料論という科目がつくられましたが、人文社会自然科学をまんべんなくやるということの意味はどれだけあるのか、疑問に思っています。その意味でいえば皆様方のような司書課程では受講者はそれぞれ主題専門を必ずもっているわけですからその点で強みがあると思います。
私が前にいた図書館情報大学は図書館情報学を学ぶ専門課程となっています。それで専門的な主題の部分が弱いとは常に言われていることです。コンピュータを学んだことで特化できれば、それはそれでいいのですけれども、なかなかそうならない卒業生もいて難しいところがあります。また、今いる教育学部でも図書館学を開講しています。教育学というのは、応用領域であってその意味で図書館学と似ていて、主題専門とは違う部分があります。他学部から聴講をする人がいるのですけれども、教育学部の中でどうやって司書を養成するのかというのは、今後の大きな問題になっています。
アメリカでは、学部で主題領域を学んだ後、図書館学を大学院で学びます。この背景には諸学問との関係における図書館学の位置づけと大学における学習過程に関するきちんとした理論が存在しています。ところが、わが国ではそうした理論抜きで、それぞれの大学の事情で図書館学の教育体制を作り出してしまっていることに疑問を感じます。
次に図書館で必要なコンピュータ技術について考えてみます。もし資料・情報の専門家ということでいくのであれば、インターネットにサーバーを立ち上げて、ホームページを作れるとか、CGI技術を使ってデータベースをインターネットで提供する、そういうシステムを自分で作れる、そのくらいの力が図書館員にないとだめじゃないかなと思います。すべての図書館員とは言わずとも、1館に一人はほしいということです。実は、図書館の管理的なシステムはSEやプログラマーが設計しているわけですが、これはついこの間までハードがきわめて高額であり、ソフトウェア込みでリースやレンタルで提供されていたためですが、同時に、技術が個々の企業のノウハウのなかに囲い込まれたものになっていたからだともいえます。けれども、インターネット関連の技術は公開されており、フリーソフトのような一般に無料で入手できるものが多く、その気になれば図書館は自前の技術でシステム開発できるのです。
現在は情報技術をいかに使用するかということが司書養成のポイントになっていますが、これを超えていかに技術そのものを使いこなすかが大事になっていくはずです。多分皆様方の図書館でもコンピュータを使ってということになると、そうした自前の技術をいかに展開するかということが要求されていくと思うのです。その辺でのノウハウが、なかなか教育のほうに上がってこなくて、私どもも何をやったらいいのかわからないということがあるのですけれども、図書館界を挙げてノウハウを集積していくことが重要になっております。
最後に、「図書館の自由」ということを考えてみたいと思います。皆さんもご存じのとおり、日本で図書館の自由というと日本図書館協会が作った「図書館の自由に関する宣言」を中心に考えるのが一般的です。これは、1954年に出されておりまして、79年に改定されております。あれを中心にいろいろなことが検討されてきました。しかしここに来て、あの原則でどう判断したらいいか、極めて難しいという状況がたくさん出てきています。そのような状況は『ちびくろサンボ』の問題が起こってからかなりはっきりしてきました。あの問題は、その原因がそもそも外国の人種問題にあるわけですけれども、ともかく日本で出版社、特に岩波書店が『ちびくろサンボ』を絶版にしたことで一つの解決を見たわけです。私はその場合の岩波書店の責任が大きいと思っているのですが、ともかく出版界としては絶版ということで落ちつけようとしました。
しかし、図書館には問題が残された、というより絶版になったことで図書館の問題となったわけです。図書館はまさにストックのシステムであって、残された資料をどういうふうに提供していくかは、もう出版の論理だけでは判断できなくなったわけです。あの時にいろいろと息の長い議論をしたことは評価されてよいことだと思います。しかしながら、図書館協会としても個々の図書館が『ちびくろサンボ』をどのように提供していったらいいのかということについて、統一的な見解は出せませんでした。もともと日本図書館協会は、統一見解を出すような場ではなかったことも確かです。ようやく社会的に認知されつつあったストック情報システムとしての図書館の独自の判断が求められたのに、それが出せなかったところに今日の混迷の一つの原因があります。
それが今回の、『フォーカス』事件にも結びついています。この雑誌に、少年法違反になるということのようですが、ある殺人事件の容疑者(未成年)の写真が載せられていたということで、その雑誌をいかに提供するかが問題になっています。出版社としては、少年法に対する抗議の意味を込めた確信犯的な行為だったともいわれています。図書館としては、最終的に個々の館に判断を任されたという形になっています。図書館協会の見解も出されていますが、それを読んでもじゃあどうしたらいいかわからないということで、図書館協会に問い合わせがたくさんいったということを耳にしております。図書館雑誌の投書に、図書館協会があのような資料の提供のしかたを一律に指示するような見解を出すことは極めて危険なことだという意見がありました。資料をどのように提供するかは、それぞれの図書館がそれぞれの図書館の、これまでの提供のポリシー及び図書館のさまざまな事情に応じて、判断していくべきことなのだろうと思います。
だが、なんども続くこのたぐいの資料の提供問題をただ手をこまねいていてよいのかとも思います。「ちびくろサンボ」以来、図書館がこうした問題をどのように扱うのかを決めかね、判断停止に陥っている状況があるのではないかという印象を受けます。
このことは逆説的に言えば、まさに図書館という情報基盤ができかかっていることを示しているのだろうと思うのです。あの場合、出版流通においても、あの雑誌をどのように売るかは、個々の書店にある程度任されていたということがありました。それと同じことなのですが、図書館は図書館で、ストックしたものをどういうふうに提供するかはそれぞれ任されるということです。そして、図書館の資料保存と提供の仕方そのものが社会的な関心を呼ぶことも示しています。図書館はかつては出版流通の一部にすぎなかったわけですが、今になって、そうではない新しいシステムとして認知されかかっている。そのことを図書館はきちんと認識して主体的な判断をしていくことが要求されています。図書館長に専門職が必要なのはこのような難しい判断をする責任者は当然プロであるべきだということからきています。こうしたことを今回の事件が教えてくれております。
「図書館の自由に関する宣言」は、戦後の日本国憲法の言論・出版の自由の原則に基づいて作られていると思うのですが、その解釈を巡ってもいろいろ広がりが、今出てきているわけです。出版の自由に関わっても、憲法学者の間でも、新しい議論が出ております。図書館の場でも、「文化的多元主義」の考え方に則した捉え方が必要に思います。多様な問題について、柔軟に考えるような姿勢を用意しておく必要があるということを今回感じました。ともかく、アメリカと比べると大分遅れてではありますけれども、日本にも新しい図書館という情報基盤が認知される気配は明確に出てきていると思っておりまして、そういう意味で、私は心強く感じております。
とりとめもない話でしたが、図書館の新しい動きと、これまでアメリカで考えられていたものとの繋がりで、日本の問題をどのように考えるかということについてお話しいたしました。本日のようにいろいろな館種の方が集まって議論する場を設けるのは非常に望ましいと思うのです。日本の図書館界も強いセクショナリズムがあって、例えば、日本図書館協会は全体を統合するかのように見えるのですけど、実はなかなかそうなっておりません。学会もあるのですが、図書館界全体のいろいろな議論ができる場に必ずしもなっていません。それは、まさにさっきの情報の抱え込みとか、日本的な情報流通の特質に基づいているともいえますが、それは図書館界としてまずいことなので、共通の議論ができる場をもっと増やしていきたいと思います。
ということで、きょうの私の話は終わりにさせていただきたいと思います。
どうもありがとうございました。
*1997年に話したものなので、その後の変化があった部分について若干の注記を行った(2000年2月9日)。
[注1]『図書館学会年報』44巻2号と4号(1998年-1999年)にその記事が掲載されている。
[注2]最近、カーネギーの『富の福音』(きこ書房、2000)というフィランスロピィーに関する本の翻訳の新版が出版されたが、この本の序文にゲイツがカーネギー思想の信奉者であると書かれている。
[注3]ビル・ゲイツ氏は2000年1月にマイクロソフト社のCEOを辞任することを発表した。このことが彼の実業家としての理念の放棄を意味するのかどうか、そして、図書館へのコミットなどがどうなるのかについては今のところ不明である。
[注4]バーゾール氏はその後同大学図書館をリタイアしたようである。
[注5]浜口恵俊『間人主義の社会日本』東洋経済新報社 1982
[注6]船曳建夫あとがき―「うなずきあい」の18年と訣れて 小林康夫・船曳建夫編『知の技法』東京大学出版会 1994
[注7]狭くて居心地が悪いだけでなく、資料もろくにない駒場の図書館(東京大学教養学部図書館)が新館建設に向け着工されることがようやく決まった。あの「知の技法」の本家がどのように知的武装されるのかに注目したい。
[注8]納本制度調査会は2度の答申を出して、1999年4月からは納本制度審議会と名前を変えた。本年、パッケージ系電子出版物の納本を規定した国立国会図書館法の改正が予定されている。
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